江戸時代は争い、殺し合いがなかった?
江戸幕府は、265年もの間社会が安定していた。
1637年~38年の島原の乱から1837年の大塩の乱までの200年は、戦争のない平和な社会でした。
火の時代でした。
日本人の潜在意識に語り掛ける生類憐みの令で生き返った?!
江戸時代
江戸幕府が統治していた1603年~1868年の265年間。
徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を移して始まる。
第2代将軍 徳川秀忠(ひでただ)
第3代将軍 徳川家光(いえみつ)
第4代将軍 徳川家綱(いえつな)
第5代将軍 徳川綱吉(つなよし)
第6代将軍 徳川家宣(いえのぶ)
第7代将軍 徳川家継(いえつぐ)
第8代将軍 徳川吉宗(よしむね)
第9代将軍 徳川家重(いえしげ)
第10代将軍 徳川家治(いえはる)
第12代将軍 徳川家斉(いえなり)
第11代将軍 徳川家慶(いえよし)
第13代将軍 徳川家定(いえさだ)
第14代将軍 徳川家茂(いえもち)
第15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)
戦国時代の日本人を見た宣教師は、日本人の残忍さに驚いていたようだ。
血なまぐさい時代だったようだ。
何故、そうなったのか?を紐解く機会も持ちたいと思う。
生類憐みの令
第5代将軍の綱吉が制定した。
保護の対象は、高齢者や病人、捨て子、動物。動物は、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類などまで。
なので、肉類や魚などを食べられず、ベジタリアンだった。
しかし、地方は比較的普通に肉や魚を食べていた。
家光は、この政策に反対だったので、毛皮を綱吉に贈ったらしい。
儒教を学んだ綱吉は、捨て子の多さから制定したと言われている。
行き過ぎた感はあったが、戦国時代の血生臭さから抜けるのには、22年間は必要だった。
日本人のDNAを呼び起こすのに必要な22年間。
行き過ぎだったかもしれないが、簡単に人を殺す感覚を正すために、意味のある政策だった。
日本人の潜在意識
生類憐みの令は、「仁心(じんしん)」「慈悲の志」を涵養(かんよう)することが目的だった。
全ての物事は穏やかに法と道徳にのっとって解決するべき。人命が最も尊重されるべき。という常識に変換させた。
綱吉の前の時代は、まだ世の中は武力で解決。武力なので人が死ぬのは当然だ。的な考えだった。
日本人にこの政策が受け入れられたのは、潜在意識や集合意識の記憶痕跡があったから?
記憶痕跡とは、日本人の潜在意識にある戦いへの忌避感(きひかん)。
綱吉の22年に渡る揺らがない政策で、日本人の無意識領域に存在する戦うことへの忌避感が呼び起された。戦うことへの忌避感は、「仁心」や「慈悲の志」を涵養させるこの政策を受け入れ、殺伐とした社会の風潮を廃したと思われる。
今も社会の常識として根付いているのは、日本人の深層心理に戦うことへの忌避感が存在していたからではないでしょうか?
さらに言えば、縄文時代は1万年以上も続き、争いごとがなかった時代と言われている。
日本人の深層心理に戦うことへの忌避感がなければ、綱吉が亡くなればまた武力で解決という人間が現れたかもしれない。
文治政治が続いた理由は、日本人の深層心理でありDNAに刻まれたものがあったのだろう。
まとめ
江戸時代に縄文時代の深層心理が蘇った。
江戸時代には、生類憐みの令は愚策だと言われたが、振り返ると日本人の本来の精神を取り戻した機会だったのかもしれない。
その時に愚策と思われることも時代が変われば、賞賛されるものも多い。
今、可笑しなことだと思っても、未来には普通のことと捉えられることもあるし、その逆もある。
日本人の潜在意識は、変わらないで欲しい。
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